Dt.-Jap. Kirchenkons.2013jap - Migration/J

Dt.-Jap. Kirchenkonsultation 2013 in Hamburg
12. - 15. Februar 2013
Evang. Missionsakademie Hamburg 

6. Deutsch-Japanische Kirchenkonsultation

            日本語

Das Große Ostjapanische Erdbeben und seine Auswirkungen auf die ausländische Bevölkerung

Nobuyuki Satô

東日本大震災と外国人被災者

 

佐藤信行   (在日韓国人問題研究所<RAIK>所長)

1.被災地の外国人

 2011年3月11日の東日本大震災は、日本人と同様に、日本に住む外国人、2,100,000人にも甚大な被害を与えた。とりわけ災害救助法が適用された154市・町・村に住む外国人、75,281人(表1)に対しては、安否確認をはじめ、その窮状の全容を把握できないまま、緊急支援活動が始まった。

<表1>外国人被災者の県別/国籍別の数

 

*2011年3月、災害救助法が適用された市町村に居住していた外国人の数。
[出典]法務省ホームページ

 

 震災から4カ月後の2011年7月、私たち「外キ協」(注1)は日本NCC、日本カトリック司教協議会、韓国NCCなどに呼びかけて、「東日本大震災と外国人――日本・韓国・在日韓国人教会の宣教課題」という主題の下、第16回国際シンポジウムを東京で開催した。二日間の協議ののち、次の共同宣言を採択した。
「2011年3月11日、日本の東北・北関東地方を襲ったM9の大地震とそれに伴う大津波によって、多くの人びとの命と生活が根こそぎ奪われた。南北500キロの広域にわたって市町村が壊滅的な打撃を受け、死者・行方不明者は2万人を超え、震災から4カ月を経た現在も9万人以上の被災者たちが避難生活を強いられている。さらに、福島第一原子力発電所の事故によって、大量の放射能を放出してしまう事態に至って、被災者たちへの支援は途方もなく困難で複雑なものとなってしまった。安全神話の虚構と慢心とが引き起こした人災の悲劇的結末を突きつけられ、私たちは今、深い悔い改めと根本的な社会変革、生き方の転換が迫られている」
 このシンポジウムを契機に私たちは、被災地で活動していた仙台キリスト教連合被災支援ネットワーク、市民団体(NPO笑顔のお手伝い)と共同で「外国人被災者支援プロジェクト」を2011年9月に立ち上げた。このプロジェクトには、海外教会から多額の献金が寄せられた。しかし、外国人被災者を支援する活動は困難を極めた。それは、被災地域があまりにも広大であり、外国人被災者が点在していること、さらに、被災地の外国人は地域社会において周縁化され、不可視の存在とされてきたからである。
 1990年代以降、日本人との国際結婚で東北の農村・漁村へ移住して来た中国人女性、韓国人女性、フィリピン人女性たちが多くいた。外国人数の男女比を見ると、「女性100人」に対して男性の比率が、1990年では岩手県87、宮城県102、福島県87であったのに対して、20年後の2010年には岩手県34、宮城県69、福島県47となっていて、女性の割合が圧倒している。それは、国際結婚の移住女性が急増したためである。しかし彼女たちは、家では「日本人の嫁」としてふるまうことを強いられ、地域社会では「日本人夫の○○家」の中に埋没させられてきた。

2.石巻市の「外国人被災者調査」

 震災から1年たった2012年3月、宮城県の沿岸部にある石巻市は、東北学院大学の郭基煥(カク・キファン)研究室と共同で、市内在住の20歳以上の外国籍市民426人に対して、「石巻市在住外国人の被災状況と多文化共生についてのアンケート」(注2)を実施した。
4月10日、アンケート回答の集約日、最終的に92人から市役所に回答が寄せられた。
まだ復興途上にあり、居住、就労、就学など一人ひとりの生活そのものが混乱している渦中で、市内在住外国人のうち「四分の一」近くが回答を寄せたことは、被災者として、また地域社会の一員として、石巻の復興と共生社会の実現に参加したい、という外国人住民の強い思いがあったからである。
「外国人被災者支援センター」(注3)は早速、アンケート回答の集計作業に入り、その分析については東北学院大学の郭基煥(カク・キファン/社会学)、東北大学の李善姫(イ・ソンヒ/人類学)を中心に始めた。またアンケート用紙の末尾に名前と連絡先を明記して、支援を求めてきた39人の外国人に対しては、個別に連絡をとり、6月から市役所などで面接調査を始めた。
 このようにして「石巻市調査」は始まり、アンケート調査から面接調査を終えるまで約6カ月かかったが、被災した自治体としては日本初めての「外国人被災者実態調査」となり、画期的なものである。また、「石巻市調査」は、被災した154自治体の中の一つの自治体での調査にすぎないが、この調査結果は、外国人被災者全体の思いと窮状の多くを示している。

3.「石巻市調査」から見えるもの

(1)石巻市に住む外国人
 石巻市は、東日本大震災で最も多くの被害者を出した自治体である。死者3,251人、震災後に亡くなった人220人、行方不明者476人を数える(2012年8月末現在)。「死者」数の中には、外国人7人も含む。
 その石巻市で、震災前には外国人が782人暮らしていたが、震災後は513人となっている。減少した269人の大半は、水産加工場などで働いていた中国人の技能実習生が帰国したことによる。
 震災から1年後、いま石巻市に住む外国人は中国201人、コリア124人、フィリピン74人、USA29人……と続く。在留資格別では「永住者」185人、「日本人の配偶者」80人、「技能実習生」80人、「特別永住者」42人、「定住者」35人……となる。つまり、「技能実習生」を除くと、市内在住の外国人の大半は、日本人と結婚して石巻市に定住して永住資格を取得、あるいは「日本人の配偶者」として1年/3年の在留期間更新をしている中国人・韓国人・フィリピン人など移住女性となる。

(2)アンケート回答者の平均像
 アンケートの回答者92人の年齢は、20歳から75歳までで、中央値が40代である。性別では、女性が85%で、男性を圧倒している。
 配偶者を持つ外国人のうち、配偶者が日本人である夫婦が大半で、外国籍同士の夫婦は10%にすぎない。また配偶者の年齢は、最長が73歳で、中央値は54歳となる。子どもを持つ外国人の場合、8歳前後の第一子、9~10歳前後の第二子を育てている家族が多い。また、配偶者を持つ外国人のうち、配偶者の両親、あるいは父親か母親と同居している外国人は37人(58%)となる。
震災後に、仮設住宅などの狭いスペースで三世代(祖父母、父母、子ども)が同居せざるをえない状況が1年、2年と続くことは、とりわけ移住女性に過度のストレスを与えている。このことは、私たちが面接した移住女性たちから、たびたび訴えられたことでもある。
このように見てくると、回答者の平均像は、“10~20歳くらい年上の夫をもち、その親と同居しながら、0歳から10歳の子どもを育てている中国人女性、韓国人女性、フィリピン人女性”と言うことができる。

(3)3・11そのとき
①津波
 3月11日、石巻に在住する外国人の多くが、自宅あるいは職場で、地震と津波に遭遇した。実際、そのとき「津波が到達した」と回答した外国人が68%に上る。
 私たちが面接した移住女性の多くが、その時の恐怖と混乱について、あふれる涙をぬぐいながら日本語で、あるいは母語(中国語、あるいは韓国語、タガログ語……)で語ってくれた。石巻市の隣町に住んでいた移住女性は、「夫と母(義母)を奪った海を、二度と見たくない」と言い、海から20キロ離れた仮設住宅に、高校生の娘と暮らしている。
 地震直後、津波をすぐに予想できた外国人は29%にすぎない。また震災前に、「ヒナン(避難)」「ツナミ(津波)」という言葉を知っていても、「タカダイ(高台)」という言葉を知らなかった外国人は43%にもなる。すなわち、「高台に避難してください」という日本語の意味を、外国人の半数近くは理解できなかったのである。
それでも、「迅速に避難できた」と回答する外国人が46%になることは、防災無線や、家族あるいは「近所の人」「たまたま居合わせた人」から、避難するよう教えられたからであろう。
 ただ私たちが留意しなければならないことは、津波が来ることを「誰からも知らされなかった」29%、「防災無線が聞こえなかった」「防災無線で言っている意味がわからなかった」と回答した外国人が55%にも上ることである。
②家屋の全壊・半壊
 地震と津波によって家屋の「全壊」が36%、「半壊」28%、「一部損壊」23%となり、家財については「すべて破損」41%、「大きく破損」41%、「一部損壊」27%となる。家屋も家財も無事だった外国人の家庭は、わずかである。
③避難所での生活
したがって、外国人の多く(63%)が、学校や公民館などの避難所での生活を余儀なくされた。その期間は、「1~2日」12%、「3~7日」38%、「1週間~1カ月」26%となり、中には「1カ月以上」が24%となっている。
その避難所生活において、「他の避難者との関係は良好だった」(84%)、「リーダーの指示や避難所のルールはすぐに理解できた」(92%)、「他の避難生活者は、あなたが外国出身であることを知ったとき、あなたに特別に配慮をしてくれた」(56%)と回答しており、おおむね良好であったことが分かる。
その一方で、「他の避難生活者は、あなたが外国出身であることを知ったとき、あなたに不快な言動をとった」(36%)、「外国出身であることを、なるべく他の人に知られないようにしていた」(26%)と回答している外国人がいる。日本人も外国人も区別なく襲われた非常事態においても、外国人の多く(60%)は「外国出身であることを意識」して、避難所生活を送っていたのである。

(4)震災直後から1カ月
①家族のために
 震災直後から1カ月の間、家族の中に高齢者や障がい者がいる外国人は、極限状況の中で、できうる介護を必死にやっていた。
石巻市の隣町で私たちが出会った日本人被災者は、家族の中に高齢の障がい者を抱えていたため、仮設住宅への入居をあきらめて、山中に自力でプレハブ住宅を建てて暮らしていた。
②隣人のために
 被災した外国人は、震災直後から1カ月の間、家族に対すると同様に、近所の人のために、さまざまな支援をやっていた。「地震直後、津波の危険を知らせたり、避難するよう呼びかけた」(16%)、「安否確認をした」(26%)、「話の相手をしたり、気持ちを落ち着かせようとした」(22%)、「食糧調達や炊き出し、支援物資の分配などを手伝った」(41%)。その様子は、私たちが面接した移住女性の多くが克明に語ってくれた。日本語によるコミュニケーションが十分だとはいえない彼女たちにとっては、これらは精一杯の支援行動であった。

(5)帰国をめぐって
①「外国人は帰国した」という言説と現実
 3・11直後から1週間、そして1カ月、日々刻々と「福島第一原子力発電所の崩壊事故」が報じられていくそのすき間に、「外国人はこぞって帰国」という報道がなされた。
 しかし、被災地の外国人被災者はどうだったのか? 「帰国しなかった」人は64%になり、3月11日から4月末までに「帰国した」人は36%である。
 帰国――すなわち再入国許可証明書をとって「一時出国」した外国人が36%となることは、ライフライン復旧のメドがまったく立たず、さらに原子力発電所の崩壊による放射能拡散という危機の中で、日本国内に「戻るべき実家」がない移住女性にとって、子どもを連れて「母国の実家」に一時避難することは、必然の選択でもあった。
私たちが面接した移住女性の多くは、震災から1カ月間、連日のように母国の実家から国際電話がかかってきて、子どもと夫(日本人)を連れてすぐに帰国するよう、強く促されたという。そのため、「母国の両親を安心させるためにも、一時帰国をせざるをえなかった」と語る移住女性もいた。
②「帰国しなかった」外国人
 被災地の外国人は、これまで経験することがなかった未曾有の事態に直面して、一人ひとり心の中で、「津波や地震がまた起こるのではないかと不安だった」(95%)、「放射能が自分自身に及ぼす影響が心配だった」(82%)、「放射能が子どもに及ぼす影響が心配だった」(89%)、「今後、生計を立てていくことに困難を感じていた」(81%)というように、恐怖と不安にかられていた。
その中で、「知人や領事館から、避難のための帰国方法について情報を得ていた」(53%)外国人が「帰国」という選択肢の前で、逡巡していた。「帰国したかったが、渡航費用の問題で断念した」42%、「ケアを必要とする人がいたために帰国をあきらめた」という人は38%となっている。
その一方で、「帰国」という選択肢そのものを持たなかった人が57%となっている。すなわち、第二次世界大戦の前から日本に住む「在日」コリアンと「在日」中国人、そして日本人と結婚した移住女性の多くは、当時も、そして震災から2年たった現在も、帰国という選択肢を持っていない。

(6)震災から1年後の現状
①被災者の住居
震災から1年後(2012年4月)、被災した外国人のうち、自分の持家に住む人は33%、借家27%、仮設住宅26%となっている。すなわち、家あるいはアパートの1階が津波で流されて、2階で生活を続けている家族、家が全壊あるいは半壊し、建て替えや改築のメドがつかないまま仮設住宅に住む家族、さまざまである。
 たとえば、日本人の夫は、父母が住む仮設住宅に同居し、本人は仙台の友人宅に身を寄せている移住女性もいた。この夫婦は一日も早く別居生活を解消したいと願っているが、結婚と共に新築した家の1階部分が津波で流され、改築すると二重ローンとなるため、決断できずにいる。
②外国人家庭の貧困
 震災前、移住女性の多くは、無職・専業主婦(36%)、あるいは水産加工場や水産物販売などの仕事に臨時雇用(32%)されていた。
ところが、3・11の地震・津波によって、彼女たちの職場の多くは失われてしまった。そのことは、震災前と震災後において、「常時雇用」も「臨時雇用」も激減し、「無職」が急増していることに示されている。
 一方、彼女たちの夫の職業を見ていくと、彼らは震災前、「漁業・農業」(19%)をはじめ、「水産加工・水産販売・運輸」(50%)などの仕事に就いていた。ただ、「経営者/常時雇用/自営業」36人に対して、「臨時雇用」14人になる。つまり、有職者の30%近くが非正規雇用であった。そして震災後、「自営業」は減少している。
 彼らの就労形態や仕事内容は、震災前と震災後で、上記以外に大きな変化は見られない。しかし現実には、震災前に勤めていた会社が倒産・休業して、「同じ業種」の別の会社で働いていたり、毎日4時間かけて他の地域の会社に通っているケースもあった。
 これまで臨時雇用などで働いてきた移住女性(有職者)の49%が、また、その夫(有職者)の32%が、震災によって収入が「完全に失った」「半減した」。
 外国人被災者、とくに移住女性とその家族の多くは、震災後1年たって、自宅あるいは仮設住宅などで、「平穏」を取り戻したかのように見えるが、実際は、「経済的な支援を必要」としている外国人が86%という数字に見るように、将来の生活設計を描くことができないまま、義援金を切り崩して凌いでいる。
③孤立している在日コリアン・在日中国人
 石巻市に住む外国人の大半が日本人と結婚した移住女性であるが、10%近くが「特別永住者」の在日コリアンと、「永住者」の在日中国人である。彼ら彼女らは、日本の植民地支配によって日本に住んでいる一世と、その子孫である。日本は国籍法において血統主義を維持しているため、日本で生まれ育って二世、三世、四世になっても「外国籍」であり、市民的権利が大幅に制限されている。
アンケート回答者のうち4人の方に私たちは面接することができたが、そのうち3人は、第二次大戦前の日本で生まれた「在日二世」の高齢者であり、しかも無年金である。関西や関東などの自治体では、無年金の外国人高齢者・障がい者に対して「福祉給付金」として月額10,000~20,000円を支給しているが、被災地の自治体ではそのような措置はとられず、無年金のまま放置されてきた。ある在日中国人と日本人の老夫婦の場合、自宅兼店舗が津波で流されて仮設住宅に入ったが、日本人の妻の年金、月々3万円と義援金で細々と暮らしている。
もう一人、在日韓国人三世の女性の面接では、同胞社会からも、地域社会からも、また親族からも隔絶されたまま3・11を迎えたこと、さらに震災後の混乱の中で、支援情報を得ることなく孤立して生きてきたことが語られ、私たちはしばし言葉を失った。

(7)外国人被災者が求めているもの
①避難情報と放射能汚染情報
 被災地では3・11以降、今でも余震が続いている。また福島原子力発電所の崩壊事故も、まだ収束していない。その中で外国人被災者は、「安全な避難場所」についての情報(89%)、「放射能」に関する情報(86%)を強く求めている。
石巻市は、福島第一原子力発電所から100キロ圏外にあるが、隣町に女川原発がある。放射能の拡散は、漁業と農業の再開と復興にとって死活の問題である。そのことは、就業できる職種領域が狭まれている外国人にとっても、同様である。
さらに、子どもを持つ外国人の家庭の場合、子どもの健康に及ぼす影響を深刻に考えざるをえない。ところが、私たち日本人でも、原子力発電所と放射能汚染をめぐる「現在の事態と今後」を十分に把握することができていないのに、日本語が十分ではない移住女性に、それを理解し判断することはさらに困難を伴う。日本語ではなく母語によるその情報提供を求めている外国人が44%に上ることは、彼女たちの困難さを示している。知りたくても、知らされていないこと――そのことがさらに、移住女性たちの不安感をかきたてている。
②生活情報が得られない
 震災から1年、被災した自治体には全国の自治体から職員が出向するなどして、各種行政サービスの業務がほぼ復旧している。それでも、「生活情報」を求める外国人が82%に上る。それは、震災前の地域社会から突然切り離されて、仮設住宅に住む被災者にとって、仕方ないことである。とりわけ移住女性にとっては、さまざまな「生活情報」を知り、それを利用することが、困難なのである。とくに移住女性の場合、市役所から送られてきた案内や、仮設住宅の掲示板に貼られた案内は、日本人の夫か、近所の人に読んでもらって、やさしい日本語に“翻訳してもらう”しかない。
③切実な子育て支援
 同様に、「子育て支援の情報」を求める移住女性は62%となり、そのうち、母語による「子育て・教育情報」を必要とする移住女性は28%となる。
 仮設住宅やアパートの狭い一室で乳幼児を育てている移住女性に、子供服やミルクを届けに行くと、震災のさ中に生まれた子ども、あるいは震災後の混乱の中で生まれた子どもを前にして、私たちは途方にくれてしまう。彼女たちには、育児について母国の母に相談することも、また子どもが急病になって近所の隣人に助けを求めることも、ままならないからだ。
④日本語教育の場
 外国人被災者の多く(69%)が、就労についての情報を強く求めている。しかし、石巻の各産業は復興の緒についたばかりであり、外国人が就労先を見つけることは容易ではない。
さらに移住女性の場合、日本語での日常会話ができても、日本語を「読む」こと、とりわけ「書く」ことは、きわめて困難である。すなわち「会話」では、「まったく問題がない/あまり問題はない」と回答した外国人は61%になるが、「読む」こと42%、「書く」こと30%、と下降していく。
実際、私たちがこれまで面接した外国人のうち、「日本語で履歴書を書く」ことができる移住女性は、ごく稀であった。また、日本語だけではなく「母語による就労情報」を求めている外国人も41%に上る。
このように、彼女たちが求める「日本語学習の場」(73%)、「就労のための情報と学習の場」(74%)は、きわめて切迫した要請としてある。
 一方、アンケートの中で、母語による「日本の習慣などに関する情報」を求めている外国人は、40%となっている。
近代以降に構築され、戦後変容したとはいえ牢固とした精神的枠組みを維持している日本の「家制度」の中に、“日本人の嫁”として迎え入れられた移住女性にとって、「日本の習慣」という壁は、しばしば、家族としての情愛を超えて、理解不可能なものになる。その壁を取り除くべく努力するのは、移住女性ではなく、むしろ「日本人の夫とその親」のほうでなければならない。しかし現実には、混乱が生じた際、もっぱらその責めは“日本人の嫁”(移住女性)に帰せられる。その不条理な多くの事例に、私たちは被災地の中で相対しなければならなかった。
 まず移住者が、「日本語」と「日本の社会制度」(外国人の法的地位、健康保険や年金など社会保障制度、家族制度と慣習など)を学ぶことができる場が必要である。このことは、移民を受け入れている諸外国では、すでに実施されていることである。しかし日本には、そのような「日本語教育・社会教育」制度がない。すなわち日本には、「外国人管理」政策があっても、「社会統合」政策がないからである。
⑤多文化教育の場
 アンケートの中で外国人は、「家族の中で、あなたの国のことば(母語)が普段から使われている」(31%)、「子どもは、あなたの出身国の文化や歴史についてよく知っている」(35%)と回答している一方で、「子どもには、あなたの出身国のことを教えるのが望ましい」と回答した外国人が82%にも上る。外国人、とりわけ移住女性の多くが、子ども(そのほとんどが「ダブル」で「日本国籍」)に対する、母語=継承語と、母国の文化=継承文化の「教育の場」を強く求めているのである。
 移住女性の多くが、子どもに継承語・継承文化の獲得を求めていることは、民族的アイデンティティの表出であると同時に、「国境を越えて」結婚した当事者として、子どもが「国境をまたぐ生活圏」の中で生き、グローバルな人間になってほしい、という戦略的な願望だと言える。
 子どもたちが、ダブルの文化をもって生まれた人間としての自覚と尊厳を育む場と機会が、必要なのである。そして、そのような場が学校教育の中に設けられることは、マジョリティである日本人の子どもたちにとっても、多様性を受け入れ尊重する、豊かな感受性を育むことになる。その重要性については、国際人権機関から日本がたびたび指摘を受けていることである。
⑥地域社会への参画
 アンケートで震災直後の避難所生活の様子を聞いた設問の中で、85%の外国人が「避難生活を通して、地域の人たちへの連帯感や一体感が増した」と回答している。そして、いま必要としているものについては、78%の外国人が「日本人との交流の場」を挙げている。
 また、アンケートの中で帰属意識を問う設問において、外国人は「自分の出身国のことを誇りに思う」(89%)とすると同時に、「石巻市のことを誇りに思う」(75%)、「生計が成り立てば、これからも石巻市に住みたい」(80%)と回答している。
 これらの数値から、震災以降、外国人の地域社会への連帯感と地域社会参画への希求、その高揚を読み取ることができる。このような外国人の「思い」を、私たち日本人と地域社会、日本社会がどのように受け止めるのか?
 外国人が「住民」として「隣人」として可視化され、地域社会に参画する/参画できる具体的な回路を作ることが必要なのである。それは石巻復興、地域社会の復興にとって必須のアイテムとなるに違いない。
⑦移住者のコミュニティ作りと発信
 2012年夏、市役所での2時間余りの面接の最後に、「震災後にこんな辛い思いをしなければならなかったなら、3月11日に死んでいればよかった」と涙する外国人女性に、私たちは返す言葉がなかった。
 アンケート結果では、外国人の大半は、家族や近所の日本人、同国の知人に頼って助言や支援を受けているが、「頼りになる人が、まったくいない」4%、あるいは「悩みを打ち明ける人は、誰もいない」4%となる。
 震災前の石巻では、移住女性――中国人、韓国人、フィリピン人、それぞれ民族内での交流は、日本語教室や教会で顔を合わせる程度であって、民族内コミュニティを作るまでには至っていなかった。それは、それぞれ一人ひとり日本に渡ってきた経緯や、家族の在りようによって、共通項を見いだせないまま、個々バラバラに分断されて暮らさざるをえなかったからである。
ところが、震災を機に大きく変わっていく。被災した外国人の多く(74%)は、震災直後から約1カ月間の混乱の中で、市内在住の同国出身者のために、安否確認をはじめ、さまざまな救援・支援活動を担っていた。そしてその後も、相談にのったり、助言したり、あるいは自ら必要とする支援情報を求めて、日本に住む同胞と電話やメールで、「ほとんど毎日」(28%)、「毎週一度以上」(26%)、「月に一度以上」(10%)連絡をとりあい、ときには直接会って話している。
 またアンケートで、「震災以降、頼りになる人は?」という設問に対して、「配偶者」「子ども」(79%)の次に、「日本に住む同胞」「同じ教会に通う同胞」「同じ日本語教室に通う同胞」(50%)を挙げている。
 これらの数値から、民族内のコミュニティ作り、自助組織化を、外国人の半数以上が求めていると言うことができる。民族内それぞれの自助組織ができれば、「頼れる人がいない」「悩みを打ち明ける人がいない」同胞を救い出せるし、自分たち移住女性の「思い」と「意見」を、地域社会に対して強力に発信していくことができるはずである。
 このような移住女性の自助組織化を、自治体と市民社会がサポートすること、そして各地域での具体的な復興事業において、外国人(移住者、在日コリアン、在日中国人)と日本人が協働していくこと――これが、今後の外国人被災者支援活動の中心テーマであり、活動の目的となる。

4.教会として、キリスト者としての課題

 冒頭で触れた2011年7月の国際シンポジウムで、日本・韓国・在日教会は宣教課題を次のように確認した。
「被災者への支援と復興の課題は多岐にわたり、幾層にも重なっているが、その根底において問われているのは、人間一人ひとりの尊厳と繋がりを基盤に据えた社会を再生していくことである。人間同士の結びつきよりも、生産性や効率性を優先させてしまう社会は、暴力的であり、かつ脆弱である。復興し、再生されるべき社会の指標の一つは、外国人にとって暮らしやすいかどうかである」
「資本の論理が暴走し、植民地主義が台頭するとき、人間は労働において細分化され、序列化され、移動を管理・監視される。そして労働力としての外国人は、多民族・多文化を背景としていながら、画一化され、同質化を強いられ、多文化の主体・交流の主体となることを阻まれ、分断され、排除される」
「今日の世界は、グローバル化した欲望に席巻され、多くの命が、差別と抑圧、搾取と収奪、憎しみの連鎖の危機に晒されている。しかし、その世界のただ中で、私たちは誰もが自らの尊厳を確認し、自らの命を喜びつつ、違いを認め合いながら交わることのできる和解の福音へと、招かれている。最も小さき人びとの傍らで神の国を宣言し、神と人びととを結び合わせる和解の主、イエス・キリストのもとで、私たちは共に生きよう」
「私たちは信じ、訴える。日本で震災に遭遇し、命を奪われ、日本でこの悲しみに直面している外国人住民を忘れ去ったままに、真の復興も、新しい社会の創造もなし得ないということを」
 私は2012年4月から毎週、東京から被災地に行き、外国人被災者に面接し、生活支援を続けてきた。しかし私たち日本教会と在日韓国人教会の働きは、いまだ点と点を結ぶ細い糸でしかない。

あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。
あなたの神、主は、地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、
あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。
あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
……主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、
……奴隷の家から救い出されたのである。
(申命記7:6~8)


(注1)「外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会(外キ協)」は、在日コリアンをはじめ在日外国人の人権問題を、教会の宣教課題として取り組むために1987年に結成されたネットワーク。外キ協には、各教派・団体(日本カトリック司教協議会/日本NCC/日本基督教団/在日大韓基督教会/日本聖公会/日本バプテスト連盟/日本バプテスト同盟/日本キリスト教会/日本自由メソヂスト教団/日本YWCA/日本キリスト教婦人矯風会)と、北海道/関東/神奈川/中部/関西/広島/九州・山口の各地外キ連が結集している。
(注2)「アンケート調査票」は、東北学院大学の郭基煥(カク・キファン)研究室が作成し、質問事項28項目、A4判16ページに及ぶ。また日本語版のほかに、英語/中国語/韓国語/タガログ語/タイ語版も作成し、外国人の第一言語に応じて日本語版と多言語版を同封した。
(注3)「外国人被災者支援センター」は、外国人被災者支援プロジェクトが2012年4月に仙台市に設置したもので、ボランティア・スタッフとして日本人の他、韓国人女性、中国人女性、タイ人女性が参加して始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Konsultationen

Zur Chronologie der Beziehungen:
DOAM und Tokyo / Tomisaka 

1945

Pfarrer Dr. Liemar Hennig in Kyoto, Pfarrer Theodor Jaeckel und der japanische Pfarrer FUKATSU Fumio in Tokyo.

1946

Dr. Hennig und Pfr. Jaeckel werden entlassen. Pfr. FUKATSU bleibt allein.

1952

Pfarrer Harald Oehler aus Halle wird als erster Missionar nach dem 2. Weltkrieg nach Japan entsandt. Er versteht seine Arbeit als "Pioniermission" in einer Zeit des Aufbruchs, des Suchens nach beständigen Werten in der jap. Gesellschaft. Er findet ein im Krieg weithin zerstörtes, aber in schwerer Nachkriegszeit schon wieder im Aufbau befindliches Tomisaka vor. Pfarrer FUKATSU Fumio hatte über Krieg und Nachkriegszeit alle Kraft zur Erhaltung des Besitzes verwendet. Ein Jahr später,

1953

wurde Pfr. Fukatsu entlassen, der sich dann zur Diakonie hin orientierte und das große Diakoniewerk "Kanita-no-Mura" in Tateyama, Chiba-Ken aufbaute.

1957

kam Superintendent Alfred Schmidt nach Tokyo um den Aufbau einer Akademiearbeit nach deutschem Vorbild in Japan voranzutreiben. Bis 1959 geschah dies in Zusammenarbeit mit der DOAM, danach machte sich die Akademiearbeit selbständig.

1961

kamen Pfr. Heyo Hamer und Pfr. Norbert Klein nach Tokyo. Letzterer arbeitete von 1962-1965 in der Akademie. Pfr. Hamer ging nach dem Studium in eine neue Arbeit nach Fukuoka bis 1968. Dort arbeiette er eng zusammen mit Prof. TAKIZAWA Katsumi von der Kyushu-Universität.

1965

wurde Pfr. Günter Dressler nach Japan entsandt, um die Nachfolge von Pfr. Oehler anzutreten. Er kehrte 1975 aus Japan zurück. Im gleichen Jahr,

1975

wurde Pfr. Schneiss im Auftrag des EMS (und DOAM) in den Dienst der Vereinigten Kirche Christi in Japan (Kyodan) nach Japan ausgesandt.

 

Die japanischen Mitarbeiter

1887

Gründung der Kamitomisaka-Gemeinde

1937-1954

Pfarrer Fukatsu Fumio

1954-1967

Pfarrer Matsumoto

1967-1984

Pfarrer Bitoh Shunichi

1985-1998

Pfarrer Ishimaru Yasuki
(Pfr. Ishimarui versieht weiterhin die Pfarrstelle)