2014: Yasukuni für den Frieden? - KOREA

8.-9. August 2014, Tokyo

"Ist ein 'Gottesdienst' im Yasukuni-Schrein für den 'Schutz des Friedens' notwendig?"
Eine Veranstaltung der Bürgerinitiative "Lightening peace candles to the darkness of Yasukuni"

遺族証言、韓国

靖国神社に閉じ込められている父を返せ
太平洋戦争被害者補償推進協議会

私は今回日本に来て127回目となります。なぜ、日本に多くきたのか簡単にお話ししま す。

私の父であるは1944年2月徴用に引きずられて行きました。ひとりの女性の夫であり生 まれたばかりの乳飲み子の父であった朝鮮青年はやっと23才になったばかりでした。その 時、私は生まれて13ヶ月しか経ちませんでした。私は祖母の話しから父という存在に接し 、 話しを通じて父を想像するしかなかったです。幼い私に父の空席を満たしてくれたのは祖 母から聞かされた話でした。祖母の愛によって、想像の中の父でなく実際の父の跡を探そ うと決心できたし、今まで活動を続けられる力になりました。

私はこの活動を始めて今年で26年目なります。父の跡を探しているうちに、それが自然 と運動になり、もう26年も経ちました。長いといえば長い歳月、今日まで多くの方々の助 けがなかったら、私はここまで来られなかったでしょう。考えると有難くまた暖かい情も 感じます。

人生で人は会ったり別れたりします。時には準備された別れもありますが、やむを得ず 不意の事故で突然別れをする場合もあります。しかし私は日本によって父と生き別れをし なければなりませんでした。植民地支配で韓民族が体験した最も大きい苦痛は家族同士の 生き別れでした。韓国では子が親より先に死ぬと親の悲しみを喩えて「親は自分より先に 死んだ子を胸に埋める」といいます。逆に私は父の死を私の心の中に埋めました。父との 別れからくる痛みを癒す活動というのは、私に与えられた宿題のようなものだと思います。 今まで私は父なしに育った娘、遺族として生きてきながら、見たり聞いたり感たり考えた りしたことを数回の裁判で述べてきました。いやな記憶を思い出し、美しくも楽しくもな い家族史を毎回赤裸々に表わさなければなりませんでした。

「あんにょん・サヨナラ」というドキュメンタリーを通じて私のくやしさを知らせたり もしました。それは日本が犯した戦争犯罪により被害者家族がどのような痛みと悲しみに 耐えてきているのか、今までも反省のない日本に対してどれくらい怒っているかについて すこしでも表現できたと考えます。 今までの裁判過程で何回も自分の人生を述べました。私は被害者が日本に向かって、いっ ぱいになった憤りの感情を解きほぐせるように、日本の良心とコミュニケーションするこ とを心から切に望んでおります。 しかし、日本政府や靖国神社は遺族たちの声を聞けず、聞こうとしません。日本が起こし た戦争で死んた人々、家族の死により傷ついて苦痛の中で一生を生きてきた遺族たちのつ らい呼びかけに対し冷遇し続けている日本政府や靖国神社の態度に憤りが爆発しそうです 。 いったい遺族たちに知らせてくれない記録を、なぜ、そんなに鳥肌が立つほど、正確に残 しておいたのでしょうか。もっぱら靖国のための記録でしたか。記録が一つ一つ見つかる たび、私は本当にミステリーだと感じます。 私が学識を備えた人なら論理的に一つ一つて問い詰め、日本政府や靖国神社の不当性を暴き出すことができるでしょう。ですが、私は論理の問う前に、父親なしで育ったことのく やしさ、父がどのようになくなったのか家族に知らせてくれなかったこと、そして私たち には父がなくなったことについて一言もせず靖国神社に勝手に合祀したことに対しての怒 りでいっぱいです。それで私の心は憎しみ、憎悪で一杯になりました。これが私の自前の 論理というものでした。

ですが、誰かを憎むと自分の心も地獄のようなるものです。私はもうこのような怒りと憎 しみの鎖を断って解放されたいです。心安らかになりたいです。そうするために私の父の 名前を靖国神社から解放させること、霊璽簿から名前が消されることを切実に望みます。 霊璽簿から名前を消しても靖国神社ががらがらと崩れることもないのに、なぜ日本の司法 はあれこれ言い訳をいいながら、良心をだまし、とんでもない判決をくだしているのです か。正義や良心から、日本の司法の判決について聞きたいです。

私は必ず、日本政府や靖国神社により、魂が捕られてしまっている私の父の名前を取り 消します。取り消す日が必ずくると硬く信じながら、日本政府と靖国神社に対して日本の 司法が正しく判断できるように、日本の市民の皆様と力を合わせたいです。その力を合わ せていけば、戦争のない平和の道が開かれると確信します。

最後に被植民地時代の朝鮮人の人生について書いた詩人の「 輓歌」という詩の一部を 紹介します。この詩は1927年9月、西大門刑務所で死んだ独立運動家を哀悼しながら書か れた詩です。

輓歌*

じめじめと雨の降り続く黄昏の道を
私たちは同志の棺を担いで出て行く
輓章**も、銘旌も
立てず
経帷子さえ着せられなかった死体を肩にのせ
一昨日、肩にのせ担いで出てきた獄門をすぎ
のっしとのっしと無言に無學峴の峠を越える
...

同志たちは相変らず唇をかんで
頭を下げたままのっしとのっしと歩いていく
親戚も、恋人も、ついて行く人いなくても
冥土道までうんざり尾行され、
弔歌も歌えない
生ける屍は
棺を担いでのっしとのっしと 無學峴の峠を越える 。

輓歌*:故人への哀悼歌
輓章**:故人を哀悼しながら書いた文を紙か錦に書いて旗にしたもの