2014: Yasukuni für den Frieden? - Yamada

8.-9. August 2014, Tokyo

"Ist ein 'Gottesdienst' im Yasukuni-Schrein für den 'Schutz des Friedens' notwendig?"
Eine Veranstaltung der Bürgerinitiative "Lightening peace candles to the darkness of Yasukuni"


軍事大国化への道と戦死者顕彰

山田昭次(立教大学名誉教授)


はじめに

1952年 9 月 1 日に開催された自由党議員総会で同党総裁であり、首相だった吉田茂は、「再 軍備については現在は経済的にもできない」と断った上で、「物心両方面から再軍備の基礎を固 めるべきである。そこでは精神的には教育の面で万国に冠たる歴史、美しい国土など地理、歴史 の教育により軍備の根底たる愛国心を養わなければならない」と力説した。 大熊信行は「戦争は物量・兵力量のみによって戦われるのではなくて、国家への忠誠という国民の 精神的原理によって、全面的死闘にまで到達することができるのである」と言った(『日本の虚妄- 戦後民主主義批判保-』増補版、論創社、2009年、129頁)。吉田がアメリカを中軸にした連合 国による占領から解放された直後の時期に戦後の再軍備を構想するにあたって重視したのは、敗 戦によって衰えた「軍備の根底たる愛国心」の再興だった。 そして2006年12月15日に第一次安倍晋三内閣の下で「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくん できた我が国と郷土を愛する」との愛国心を強調した改訂教育基本法、および防衛庁の防衛省昇 格法が成立した。そして2014年7月1日、第二次安倍内閣は集団的自衛権の行使を閣議決定し、 海外での日本の武力行使を容認した。

吉田が「軍備の根底たる愛国心」の再興を提起してから第二次安倍内閣の集団的自衛権行使 の閣議決定までの60余年の間にアジア太平洋戦争日本人戦死者に対する追悼という名目で彼 らに対する顕彰を通じて「軍備の根底たる愛国心」の再興が図られてきた過程を首相の靖国神社 公式参拝と政府の全国戦没者追悼式の開催の検討を通じて明らかにしたい。

全国戦没者追悼式の開催とその問題点

サンフランシスコ講和条約が発効して日本が独立を回復した1952年4月28日からまもない5月

2日に新宿御苑でアジア太平洋戦争日本人戦死者遺族代表を集めて最初の政府主催の全国戦 没者追悼式が開催された。その後、全国戦没者追悼式は1959年3月28日に東京都千代田区三 番町の千鳥ケ淵戦没者墓苑の竣工式と併せて厚生省主催で行われた。

全国戦没者追悼式は無宗教で開催されたために、首相の靖国神社公式参拝に対するほどには 批判がなされないで来た。しかしこの追悼式で行われたのは追悼ではなかった。追悼とは「死者を しのんでいたみ悲しむこと」を言う(新村出編『広辞苑』)。しかしその実態はそうではなく、戦死者を

生命を祖国に捧げた殉国者として顕彰するものだった。そのことは最初の全国戦没者追悼式に際 して述べられた式辞にも現れていた。たとえば、吉田首相は「戦争のために祖国に殉ぜられた各 位は、身をもって貴い平和の礎となり、民主日本の成長発展をのぞみ見るらるるものと信じてうた がいませぬ」と戦死者を顕彰した。最高裁判所長官田中耕太郎も「戦没者は国家緊急の際に忠誠 な国民として義務を果たされ、祖国のために生命まで捧げられました」と戦死者を顕彰した。衆・参 両院議長の式辞もこれと大同小異だった。

池田勇人内閣によって全国戦没者追悼式は1963年8月15日に開催され、以後毎年8月15日 に開催されるようになった。1963年8月15日の全国戦没者追悼式は日比谷公会堂で開催された が、1964年8月15 日の全国戦没者追悼式は日本遺族会幹部の圧力により靖国神社境内で開 催された。しかし1965年からは東京都千代田区北の丸公園内の日本武道館で開催されるように なって、今日に至っている。

池田首相は1963年の全国戦没追悼式式辞では「戦争への批判はともかくとして、これら戦没者 のいさおしと非命に倒れた同胞の長恨は長く青史にととどめられねばなりません」と言い、1964年 には占領下GHQの指令によって打ち切られていた戦死軍人・軍属に対する叙位叙勲も復活して、 戦死者の顕彰に努めた。

家族の戦死を深く悲しむ遺族の多くは、政府が戦死者を殉国者として顕彰する全国戦没者追悼式によって戦死者の名誉が回復されたと思って喜び、再び国家に回収されて行った。

全国戦没者追悼式の式辞に現れたダブルスタンダード

1993年7月18 日の第40回総選挙で自由民主党が不振の結果、8月9日に日本新党代表細 川護熙を首相とする非自民6党連立内閣が成立した。細川は翌8月10日の記者会見でアジア太 平洋戦争について「私自身は侵略戦争であった、まちがった戦争であったと認識している」と述べ た。アジア・太平洋戦争を日本の侵略戦争だと認定した首相の発言はこれが初めてであった。

この年の8月15日の全国戦没者追悼式で、細川は「日本国民の総意として、この機会に、あらた めてアジア近隣諸国をはじめ全世界すべての戦争犠牲者とその遺族に対し、国境を越えて謹ん で哀悼の意を表するものであります」と、全国戦没者追悼式の首相の式辞としては初めてアジアや 世界の戦争犠牲者に対して哀悼の意を表した。

他方、彼は日本人戦死者については次のように述べた。

「苛烈を極めたあの戦いの中で、祖国の安泰を願い、家族を案じつつ、戦場に、職域に、あるい は戦災に倒れ、さらに戦後、遠い異郷の地に亡くなられた三百万余りの戦没者の方々を思うとき、 悲痛の想いが胸に迫るのを禁じえません。」(下線は山田)

これは日本人戦死者に対する哀悼の意を表するものであって、顕彰はしていない。しかしこれは、 日本人戦死者は祖国の安泰を願った者と認定し彼らを殉国者視した。戦死者本人が主観的にど のように考えて戦争に参加しようと、アジア太平洋戦争を日本の侵略戦争と認定した以上、日本人 戦死者は日本の国家によって侵略戦争に動員された果てに無意味な死を遂げさせられた存在で ある。だが細川は、一方ではアジア太平洋戦争を日本の侵略戦争と認定しながら、他方では日本 人戦死者を祖国の安泰のために戦った者と認定して彼らを殉国者する矛盾した発言をした。その 後の歴代首相も細川と同じくダブルスタンダードに立脚した次を述べるようになった。

中曽根康弘首相の靖国神社公式参拝

1953年3月に成立した日本遺族会は、1956年から靖国神社の国家護持を大会ごとに決議し た。この決議を受けて自民党は、1963年以降、靖国神社国家護持を目指す靖国人社法案の作 成に着手し、1969年から1974年にかけてこの法案を5回提出したが、成立しなかった。

そこで日本遺族会やその他の団体で1976年に結成した「英霊にこたえる会」は、次善の策とし て天皇や首相の靖国神社公式参拝を求める運動を展開した。首相たちはこれに応えて靖国神社 の公式参拝の実現を目指してまず私的参拝を、次に公私の資格を曖昧にして参拝を始めた。
1975年8月15日  三木武夫首相が私人として参拝。
1978年8月15日  福田赳夫首相が私人として参拝。
1980年、81年、82年の8月15日に鈴木善幸首相が私人として参拝。
1983年に2回、84年に4回、85年に 2 回、中曽根康弘首相が公私の資格を曖昧にして参拝。

以上の過程を経て、1985年8月15日に中曽根康弘首相は政教分離を規定した憲法第20条第 3項を無視して靖国神社に堂々と公式参拝した。しかし靖国神社に A 級戦犯が合祀されているこ とを重視する中国政府から激烈な抗議を受けたので、中曽根は外交上の配慮から以後は靖国神 社参拝をしなかった。

中曽根は1985年7月27日に開催された第5回自民党軽井沢セミナーで次のように言った。

「米国にはアーリントンがある。ソ連に行っても、外国に行っても無名戦士の幕とか、国のために倒れた人に対して国民が感謝を捧げる場所がある。当然のことである。さもなくして、誰が国に命を捧げるか」(下線は山田)

彼の靖国神社公式参拝の目的は、以上のように戦死者を殉国者として顕彰することによって「軍 備の根底たる愛国心」を日本人民衆に植えつけることだった。

平和遺族会全国連絡会の成立

首相の靖国神社公式参拝に反対の意思を表明して日中戦争の開始記念日である1986年7月7 日に平和遺族会全国連絡会が結成され、結成宣言が発表された。同会はつらくとも日本人戦死 者は侵略戦争に動員された果ての意義のない死を遂げた者と認識し、だからこそアジアや世界の 戦争犠牲者と連帯する志向を表明した。

小泉純一郎首相の靖国神社公式参拝の意図

小泉純一郎は、2001年4月18日に開催された自民党総裁選拳の立候補者公開討論会で首相 に就任した場合の靖国神社公式参拝を約束して次のように発言した。

「八月一五日に参拝するかどうかで批判の対象になる。貴い命を犠牲に日本のために戦っ

た戦没者たちに敬意と感謝の誠をささげるのは政治家として当然。まして、首相に就任したら、 八月一五日の戦没者慰霊の日にいかなる批判があろうと必ず参拝する。」 小泉は自民党総裁選挙で総裁に当選し、4月26日に首相に就任した。そして彼は2001年から2 006年までの首相任期中、毎年 1 回は必ず靖国神社に参拝した。ただし、アジア諸国の強い批 判に押されて、8月15日に参拝したのは2006年中の参拝にとどまった。

小泉の靖国神社公式参拝の目的は、前述のように「貴い命を犠牲に日本のために戦った戦没 者たちに敬意と感謝の誠をささげる」、つまりアジア太平洋戦争日本人戦死者を殉国者として顕彰 することだった。

小泉は2003年5月20日に開催された参議院武力攻撃事態への対処に関する委員会で「自分 たちができないことに対して、きつい仕事、危険な仕事をあえて自衛隊の諸君がやってくれるんだ という敬意と感謝をもてるような環境を作るのが政治として大事だと思っております」と言った。彼の 靖国神社公式参拝は、アジア太平洋戦争日本人戦死者に対する顕彰を通じて日本人民衆を自 衛隊に対する支持者にすることによって、自衛隊の政治的基盤を強めることを目的としていたので ある。

安倍晋三首相のアジアの戦争犠牲者への哀悼を抜きにした全国戦没者追悼式の式辞と靖国 神社公式参拝2007年9月25日に病気のために一旦首相の職を辞した安倍伸三は、2012年12 月26日に再び首相に就任した。

安倍は2013年8月15日に開催された全国戦没者追悼式の式辞では、「祖国を思い、家族を案 じつつ、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異郷に亡くなった御霊の御前に、政府を代表し、式 辞を述べます」と、日本人戦死者を殉国者として位置づけ、しかも細川首相の全国戦没者追悼式 の式辞以来必ず言及されたアジアに対する日本の侵略や植民地支配への反省の言葉が全くな かった。これは偶然ではない。彼は曲がりなりにもアジアに対する日本の侵略や植民地支配への 反省の意志を1995年6月9日に衆議院が表明した戦後五十年国会決議に反対する「終戦五十 周年国会議員連盟」の事務局次長の役割を務め、また教科書への従軍慰安婦の登場に反対して 1997年2月27日に組織された「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の事務局長の役 割を果たすなど、アジアに対する日本の侵略や植民地支配の歴史を否認する行動を続けてきた 人物である。

そして安倍は2013年には上記のように問題のある全国戦没者追悼式の式辞を述べた上に、12 月26日には靖国神社に首相として公式参拝をした。彼は雑誌『Voice』2005年7月号に掲載さ れた対談「日中『政冷経熱』論の虚実」で、小泉首相の靖国神社参拝を肯定して「本来、一国の指導者が、その国のために殉じた人びとに対して尊崇の念を表すのは当然のことです」と語っていた。 安倍もアジア太平洋戦争日本人戦死者を殉国者として顕彰し、「軍備の根底たる愛国心」の高揚 を図っているのである。

第二次安倍政権は2014年7月1日に集団的自衛権を閣議決定し、アメリカとの軍事的一体化 を強めた。日本の民衆は、吉田茂政権から安倍晋三第二次政権に至るまで日本政府首脳が「軍 備の根底たる愛国心」の高揚に努めてきた60数年にわたる戦後史の歩みを明確に認識し、平和 に対するこの危機を乗り越えなければなるまい。

【参考文献】

田中伸尚『晴国の戦後史』(岩波新書  788)岩波書店、2002年
山田昭次『全国戦没者追悼式批判-軍事大国化への布石と遺族の苦悩-』影書房、

2014年