Dt.-Jap. Kirchenkons.2013jap - Projekt des YWCA

Dt.-Jap. Kirchenkonsultaion 2013 in Hamburg
12. - 15. Februar 2013
Evang. Missionsakademie Hamburg 


6. Deutsch-Japanische Kirchenkonsultation
Vortrag von Frau Reiko Nishimoto
Vergleichen Sie bitte zu diesem Vortrag die Bilder in der Präsentation von Frau Nishimoto. 

              日本語 

Projekte der japanischen Young Women Christian Association (YWCA) zur Unterstützung der Opfer der schweren Erdbebenkatastrophe in Japan 

日独教会協議会  2012年2月14日 11:00〜12:30   com7300

日本YWCA 東日本大震災被災者支援プロジェクト

ともに、これからも

Guten Tag みなさん、こんにちは。西本玲子と申します。このように主にあって兄弟・姉妹である皆様と顔と顔を合わせて語り合えることを許してくださった私たちの主に感謝いたします。
 私は、2011年4月から神戸YWCAそして日本YWCA被災者支援プロジェクトのメンバーのひとりとして働いています。
まずドイツやスイスの皆様が遠い日本の被災者一人一人を忘れずに祈り、具体的に支援の手を挙げつづけてくださったことへ、日本からの感謝を述べさせて下さい。東日本大震災が起きた2011年3月11日以後、すぐに連絡をくださった団体のひとつが、みなさんでした。私たちは、本来このような緊急災害対応を目的とするNGOではありませんが、18年前の阪神淡路大震災での救援活動の実績を信頼してくださり、皆さんが具体的な献金をお送りくださることで、力以上のことをさせていただけました。これまでのネットワークや、女性団体ならではの視点を生かして、あの惨事そして混乱の中、YWCAも東北の被災者の方々に寄り添うことができました。

●まず被災地の保育園や幼稚園、教会を通して、女性とこどもたちへ、紙おむつ、粉ミルク、哺乳瓶、離乳食、おしりふきシート、生理用品などを送りました。また韓国YWCAから届いた2万本以上ものペットボトルの水と4万食以上の乾麺も被災地に届けることができました。被災地からの要請を受けて、企業からカレーのルーの提供を受け、それをお届けすることもできたのです。

●また現地で何が起きているのか、私たちに何ができるかを調査するため、スタッフを派遣する事もできました。この調査を通して、津波被災を受けながら、まだ他の支援団体が入っていない福島県相馬郡新地町という沿岸の町と出会い、緊急支援活動の一端を担わせて頂けました。新地町の方々との関わりは今も継続しています。

●そして何よりも大きなご支援は、私たちYWCAの様々な保養プログラムやキャンプを通して、東京電力福島第一原発事故後の放射能被害の中で福島県に生きるこどもたち、ご家族に、年間を通して県外での一時保養の機会を皆さんが提供くださった事です。2011年夏、冬、2012年春、夏と、あわせて726名のこどもたちとご家族が放射線量の低い県外に出て、ひととき身体と心を休める事ができました。

● そして最後に、2012年10月から福島市の中心地に、活動拠点を置く事ができました。地元の福島YWCAメンバーが「カーロふくしま」と名付けました。「カーロ」とはイタリア語で「親愛なる〜、大切な〜」という意味です。放射能被災下の福島にやむを得ず留まりながら生活する人たちが、安心して情報交換したり、おしゃべりしたりできる場所、そして共に力をあわせて活動していける場所になっていったらと願っています。
また線量計も2台、皆様のご支援で設置する事ができました。福島YWCAメンバーが定期的に市内を測っています。また県外でがれきを焼却する際に、他市YWCAが使用する事もできています。これらすべてのことを、皆様がしてくださいました。あらためて、皆様に心からの感謝をいたします。本当にありがとうございました。
 
●さて、これらの活動の中で、私が日本YWCAとして担当してきたのは、県外で一時保養をする「セカンドハウス・プログラム」のコーディネートでした。
「セカンドハウス・プログラム」とは、放射能被災下にある福島のこどもたち、ご家族、単身の女性に対して、全国の26地域YWCAの会員や関係者の方から、今使っていない部屋、住宅を一時的に提供していただき、一無料で提供するというものです。その住宅までの交通費と滞在中の水道光熱費も、YWCAが全額支援します。滞在期間は3泊4日以上。貸し出す家には最低限の家財がそろっていることも条件でした。

●ですから利用者は、滞在中の食費や諸経費を負担するだけで、あとは身ひとつで、ただセカンドハウスまで来てくれればいいわけです。また利用者が見知らぬ土地にきて困らないように、セカンドハウスに滞在している間は、その地域YWCAが利用者の要望に応えてお世話をしました。
本日は、この活動についてご紹介すると共に、その中で考え、教えられてきたことを、皆様と分かちあえたらと願っております。

皆さんは、今回の日本における放射能被災についてどのくらい知っていてくださるでしょうか。もしかしたら国外にいる皆さんの方が、原発事故によって何が起きたか、日本があの時どんな状況であったか、よく見えておられたかもしれません。

●まず福島の場所と、3月11日以後、何が起きたか?を確認したいと思います。
これは日本。そして福島。ちなみに津波の被害は岩手から千葉まで約500kmに及びました。福島の沿岸に立っていた東京電力福島第一原発も当然地震と津波の被害を受け、3月11日以降、チェルノブイリと同じレベル7の原発事故が起こります。この円は、事故原発から約200kmの四方。日本の中心である東京もこの線上にあります。

●福島です。私は今回の原発事故が起きるまで福島に行ったことはありませんでした。どんな場所なのかもまったく知らず、知り合いもいなかった場所。それがこの2年間、どこよりも多く訪れる場所になりました。私が主に活動してきたのは、福島市です。

●福島はどんなところか。ちょっと見ていきたいと思います。
福島は大きな県です。日本の中でも3番目に大きな面積をもつ県。ちなみにハンブルグの18倍。そしてハンブルグの隣のシュレースヴィヒ・ホルスタイン州Land Schleswig-Holsteinとほぼ同じ面積です。

●福島は果物、農産物の王国です。都内から新幹線で2時間弱。その近さもあってか、都会の暮らしを捨てて、農的暮らしを求めて移住する人、また有機農業に真剣に取り組む人たちも多い場所だったようです。福島市に住むお母さんは「福島は吾妻連峰のふもとに広がる盆地の町。夏は暑くて、冬はそれなりに寒くて、しいてあげれば果物だけはおいしい、特にこれという観光資源も乏しい平凡な町」と言いました。でも、私のような、普段都会に住んでいる者にとって、福島は本当に美しい町です。私がはじめて福島へ行ったのは昨年の4月。まだ寒く、山々は雪をいただいていましたが、梅の花や桜の花が濃淡のピンク色に咲き、春に向かう喜びに満ち溢れていました。これはその時、いただいたポストカードです。まさにこのカードのとおり、その時の福島は美しかったです。そんな場所でどうしてこんなことが起きてしまったのか、放射能汚染のなんたるかもわかっていなかった私でしたが、その理不尽さに叫びだしそうだったことを思い出します。

● 事故直後から放射能がどのように流れていったかを見ていきます。
これはドイツのシュピーゲル紙がWebで公表しているもの。3月12日の水素爆発以後、放射能がどのように流れたかのアニメーションです。
これをみると、最初は海に向かって流れていた放射能が、15日にぐわっと内陸へ流れたことがわかります。福島市内で毎時25マイクロシーベルトにまでなったと言われています。

●これが放射能汚染地図(2011年9月時点での放射線量)。火山学者である早川由紀夫さんが作りました。
チェルノブイリでもそうであったと聞いていますが、放射能は同心円で均等に広がるのではない。まさに火山灰のように風にのり、思いがけない場所にまで飛んでいく。この地図でも放射能は原発から北西へ流れました。そして200km先にまで飛び地のようにホットスポットを残しました。
日本政府は地震前から、原子力安全技術センターが運用するSPEEDI(スピーディ/緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)つまり事故があった際に、その時の風の具合や様々な要因によって放射能がどのように流れていくか算出するシステムを持っていました。センターは3月11日夕方から試算を開始し、1時間ごとの拡散予測のデータを政府(文科省や経済産業省原子力安全・保安院)や福島県に送っていたとのこと。しかしなぜかこのデータは用いられず、公表されたのは、なんと事故から一か月以上もたった4月26日でした。福島の人たちはスピーディのことを今も「スローリー」と呼んでいます。
この放射能の動きは被災者に伝えられませんでしたから、原発から10km圏内にあった浪江町の人たちは放射能の流れに沿って避難してしまったとも聞いています。浪江だけではありません。福島市ではちょうどこの15日に、多くの高校で受験発表が行われており、多くのこどもたちと家族が屋外にいたのだそうです。「あの時のことが悔やまれる…」と多くのお母さんから聞きました。

●これは日本政府が設定した現在(2012年11月30日現在)の避難区域です。「帰還困難区域」「居住制限区域」「警戒区域」「計画的避難区域」「避難指示解除区域」と様々な区分がされています。そして、このライン内の住民に対して、補償や支援を行っています。政府は、このラインの外であれば「ただちに健康に害はない」という言い方をして、安全宣言を出しています。しかし先の放射能の広がりをみても明らかなように、政府のつくったこの避難区域は、住民の健康やいのちを考えて「安全であるか、ないか」の線引きをしたものでは、当然ながらありません。政府が換算して、経済的に、これくらいなら補償してもいいと考えた限度内にひいたラインです。
「すぐには健康に影響はない」という言葉への直感的な疑念、後になってから、次々と重要な情報が知らされることへの不信の中、さまざまな立場をとる専門学者や市民団体から、時に180度違う情報がどっと流れ始めました。その時の混乱した様子を、あるお母さんは「まるで私たちは真実を知ることを邪魔されているようだ」と表現しました。

そして事故から3ヶ月ほどたった2011年6月頃、周辺に変化がでてきました。気づいたら隣の人がいなくなっている。いつの間にか引っ越したらしい。あせって情報を集めだす人たち。夫婦で放射能に対する意見があわず、離婚してこどもと共に県外脱出する人。一方で、あくまで県や県の雇った専門家のいう「すぐに影響はない。大丈夫」の声を信じようとする人たちも多くいました。このころの様子を、福島市のお母さんが次のように話しています。
“いま、市内で自分の不安を口にするのはすごく難しいです。「なんでそんなに不安になるの?専門家は大丈夫と言っているじゃない」「敏感すぎる」「そんなに敏感にならないでほしい。心配をあおるだけ」「そんなに逃げたかったら、誰にもわからないように静かに出て行ってほしい」などという言葉をよく聞きます。わたしのこどもたちの学校でも放射能をはからせてもらえません。近所の人はわたしが放射能を家の周りではかることをすごく嫌がっていました。多くのひとが「真実」を知りたくないのです。でも知ったからといって、どうしたらいいんですか。多くの人が仕事、学校、ローンが残っている家があるこの町を出られないのです”
福島YWCAの会長が私に言いました。「西本さん、福島でその人が放射能に対してどういう考えをもっているか知りたければ“あなた、洗濯物をどこに干してる?”って聞けばいいのよ」と。「もし短期間でもこの町を出れば、強制避難勧告が出た時に何の補償も賠償もしてもらえないと聞いた」というデマも流れて、不安が不安をあおっていました。

●セカンドハウスがスタートしたのは、このように、福島のご家族が大混乱している中でした。多くの課題はありましたが、一番の課題は、「避難」なんて口にするのもはばかられるムードの中で、いかにして「避難の機会」を提供したらいいのかということでした。
そこで、「避難」という言葉は一切使うことをやめました。「ほんとうに震災以来お疲れ様です。県外にあなたのセカンドハウスがあると思って、リラックスしに出ていらっしゃいませんか?」と呼びかけることにしました。プログラム名も「セカンドハウス・プログラム」に変えました。利用期間も当初は「一年間利用可能」と打ち出していましたが、「どんなに短くても大丈夫」と変更しました。気楽に、小旅行のつもりで出ておいでと、チラシも温かい雰囲気のイラストにしました。

●もうひとつの課題は、どうやってこのプログラムを広報するか、ということでした。これは、福島のご家族とセカンドハウスをつなぐフロー図です。
(フロー図)
私は、この図の中の「事務局」を行っていました。
セカンドハウスをWebサイトで大きく広報することもできましたが、福島のご家族が、なんだかわからない団体を通して、見ず知らずの家、しかも場所によっては新幹線でも5時間以上かかるような場所に行ってくれるだろうかと疑問でした。セカンドハウス側にしても、大家さんはあくまでYWCAを信頼して、大家さんにとっても見ず知らずの他人を受け入れようとしてくれているわけですから、私としては責任重大でした。そうなると、どうしても福島のご家族とYWCAとの窓口となってくれる、両方にとって信頼できる団体が必要だと考えました。その筆頭はもちろん福島YWCAです。そしてそこに地域教会に加わっていただきました。当時、福島市内でプロテスタント教会のネットワークができ始めていることを聞き、その事務局教会をお尋ねしました。そしてYWCAや、このプログラムについてご説明し、セカンドハウスの利用と広報をお願いしました。セカンドハウスを行った最初の夏、12家族がセカンドを利用してくれましたが、そのうち4家族がこの教会ネットワークを通して応募してくれた人たちでした。どこの何だかもわからないYWCAを信頼してくださって、多くの方が利用してくれたことを、本当にありがたく感謝しています。
今では、「保養プログラム」は増えてきていますし、既に利用してくださった方々の口コミという心強い広報の成果もあり、お断りしなければならないほどの問い合わせがあります。

●セカンドハウスは…
★一定期間(夏休み、冬休み、春休み)に限定して…
★一度利用した方が、親戚の家のように何度でも戻ってこれる…
★最小限の荷物で、すぐに生活が始められる状態…
★知らない土地でも大丈夫。大家さんと地域Yがお世話をする…
そんな県外のもうひとつの家です。

●(セカンドハウスの写真)
セカンドハウスの事務局をしていると、様々な方々の声を聞きます。
いま、原発事故の被災者は、県外に避難した人、県内に留まる人、県内に留まりながら避難する人、福島以外にも多くあるホットスポットからの避難者と多岐にわたりますが、
その一人一人が孤立感、怒り、時に罪責感を負っておられると感じます。県外に避難した人は「自分は逃げた」という思いをもちます。こどもたちでさえそうです。「お母さんは、ここにいたら危険だから転校するという。ならば、あとに残る友達たちはどうなるのだろう」。自分が避難した後に地域住民による除染が行われていると聴けば「残った人たちが危険を負って除染した後の町に、もうのこのこ帰れない」と思う。また残った人たちは思います。「自分がぐずぐずしていたせいで子供たちに大きなリスクを背負わせたのではないか」。県外からの「なぜ逃げない?」という言葉にも傷つきます。

●昨年11月、福島県沿岸部のいわき市という場所で医療相談会が開かれ、参加しました。いわきは福島市の屋内と同じくらいの線量で、ですから私は福島市と比べて「あまり大変な場所ではない」となんとなく思っていました。でもよく考えたら、県外の通常線量の約5倍もの線量なのです。医療相談会の場で一人のお母さんが次のように言って泣かれました。「周囲はもはや平常の生活に戻っている。こどもをプールに入らせず、給食も食べさせていない親は今では自分だけで苦しかった。でも同じように思っている人が、こんな近くにいたなんてうれしい」。私はそれを見て、驚きました。「仲間がいてうれしい。放射能の話が安心してできてうれしい」と言って泣く人を、少なくとも昨年11月の福島市で見る事はなかったからです。放射線量が低いために、かえって孤立が深まっていることにショックでした。そして県外の人間であるにもかかわらず、私が線量が低い、高いといって何か判断してしまっていたことを恥じました。

昨年の夏、福島の方々の保養熱はピークに達したかのようでした。
全国で数百もの保養プログラムが行われ、YWCAでもセカンドハウス以外に、地域YWCAが16の保養キャンプを行いました。こどもたちの夏休みは7月末から8月末までの一か月。多くのキャンプは、市民が募金を集めてボランティアを集めて行うものですから、開催できても期間は1週間くらいです。福島の母親たちは、少しでも長く県外にこどもを出そうと、手当たり次第にキャンプに申し込み、4つも5つもキャンプをはしごしました。また「保養キャンプのプロ」のようなお母さんも出てきて、次々申し込んでは、あとで選んで、気に入らないものはキャンセルする。多くのキャンプが「抽選」になりました。申し込んでも申し込んでも落選する人もいました。良いキャンプ情報は、母親同士でも秘密にしているとも聞きました。
私は事務所にいて、福島からの申し込みや問い合わせの電話を受けるわけですが、この夏、電話の向こう側で「まごまごしていたら良いキャンプをとられてしまう」「もっとうまく立ち回らなければだめだ」「もっと上手に情報を得なければだめだ」という母親たちの声にならない声が大音響で聞こえてくるようでした。一方で、「自分はパソコンもメールもない。他の人はどんどん良いキャンプに行ってしまう。自分は誰にも助けてもらえない」と電話してくる人もいました。「それなら」と、こちらがいくつかの情報を提供しても不平不満を並べるだけ。この方の「怒り」が伝わってきました。もはや「保養プログラム」に行けた、行けなかったということも、福島の人たちを分け隔てする壁となりつつあるのだと感じて、重い気持ちになりました。

プログラムのありかた、運用方法を一度検討しなおす必要があると感じて、私たちは、昨年の冬に「セカンドハウス」を一時お休みし、2013年春から新しい「セカンドハウス」をスタートさせることにしました。
放射能被災下で今後も長期的に生活せざるを得ない人たちが、少しでも安心して、定期的に、また計画的に県外で保養することができるように、セカンドハウスも、休み期間だけでなく、一年中いつでも利用できる県外の家として整えていこうと考えています。

●またこれまでは、とにかく福島のこどもたち、ご家族をいま、このとき県外へ!と活動してきましたが、残念ながら長期的にこの活動を続けていく必要があることを確認し、放射能被災下に生きる方たちとのプロジェクト全体をcom7300と名付けて、日本全国のYWCAで取り組んでいく決議をしました。Comとは「共に~」、7300は7300日の意味、つまり年になおすと20年間。震災の年に生まれたこどもが二十歳になるまで、私たちは共に歩んでいくという宣言です。
どうぞ、皆さんにもこの輪に加わっていただきたいと願っています。たとえば私のいる神戸セカンドハウスであれば、182EUR/356DM(日本円で20000円)あれば、ひとりのこどもを保養に迎えることができるのです。ぜひ皆様のご協力をお願いいたします。

●現在の福島市の様子を少しご紹介します。これは2012年4月、福島市駅前で撮った写真です。このとき、放射能値は毎時0.66マイクロシーベルト。放射線管理区域以上の数値です。そこで人々が普通に買い物し、お茶を飲み、こどもが遊んでいるのです。

●これは駅の反対側でとった写真。モニタリングポストが毎時0.9マイクロシーベルト(放射能管理区域(レントゲン室)の約1.8倍)を示しています。県は「安全宣言」を出しながら、この数値を住民の目の当たりにして、日常の生活をしているのです。まさにこれが福島の不条理な状況を表していると思います。

● これはドイツにくる直前、1月28日の福島市内の様子です。
線量の高い場所、比較的低い場所がさらにまだらになっているように感じました。コンクリートの道路上では0.2マイクロシーベルト。しかし衝撃緩和がはかられている道路に近づくと線量があがり0.72マイクロシーベルトになりました。
問題なのは、この道路がこどもたちが利用する図書館に通じている事です。また道路脇に設置されているモニタリングポストの数値が、道路上の数値の半分しか示していない事です。モニタリングポストのたつ場所は地面がコンクリートですし、除染もされていますから、あたかもこどもたちの歩く道路もこの数値のように見えてしまっています。

●民家の除染の様子です(2012年11月)。
福島での除染は、業者が行うものと自治会で住民の手によって高圧洗浄機で行うものとがあります。
土をはぎとり、木の枝や葉は落としても、それをどこに保管するかまだ決まっていません。しかたなくその家の庭の端にブルーシートでカバーして保管せざるを得ない状態です。

●これは、政府がいかに放射能被災の事実を矮小化しようとしているか?を現した写真。福島市内の様子(2012年11月)、モニタリングポストが2台たっています。これは何かというと、先に設置した機器が「正確な値(あたい)」を出すため、政府が別会社と契約しなおしたのだとのこと。事実を知るために琉球大教授が約100か所を測って調べてみたところ、現在のモニタリングポストは、高線量地域ほど実線量の70%ほどの線量しか示さなかったとの結果が出たそうです。実はモニタリングポストの場所だけ鉄板を埋め込んだり、大幅な除染を行ったりしており、このような「操作」が広範囲に行われている可能性が高いと報告されたのです。現在、先の会社が、一方的な契約破棄に納得できないと、政府に対して賠償請求しているそうです。
http://www.janjanblog.com/archives/82543

●最後に私が出会った方たちのことばを紹介します。福島の今を感じ取っていただけたらと思います。
「一番よかった時間は武庫川の土手の一時間。ただ座ったり、歩いたりしただけの一時間。ランナーがたまに通り過ぎて、帰り際にカモメが飛んできただけの一時間。ただの土手。ただの草」
これは私の担当する神戸セカンドハウスにいらっしゃったお父さんが、滞在中にツイッターに書いていた言葉です。セカンドハウス・プログラムは先にも言いましたように、往復の交通費、水道光熱費を支援します。それは決して少ない額ではありません。私の直接担当したセカンドハウスを利用した方は、京都や奈良の観光に行かれましたし、私たちも歓迎会なんか開いて一生懸命歓迎しました。でも、一番よかったのは「ただの土手」と「ただの草」だったとこの方は言うのです。
なんというものを福島の方々は失ってしまったのか、と胸がいっぱいになりました。セカンドハウスは、単に経済的な支援をしているのではないんだと深く思わされたことばでした。

●「こちらに来て一週間ほどして、指の先からストレスが出ていくのがわかったんです」
これもセカンドハウスの利用者の方の言葉です。この方が、福島でどんなものを背負っていたのかと思うと、胸が痛いです。

●「福島とセカンドハウスのあまりの違いに、はたしてどちらが現実の世界なのか、自分の平衡感覚がおかしくなっていくようでした。セカンドハウスで見た生活が、本当の人間の生活なのに、そのことが、とてもとても遠い世界に感じていました」
この方はセカンドへやってきて、「こどもたちや大人が公園で遊んだり、芝生に座ったりしていること、木のベンチに腰かけていること、家の玄関先の三輪車に砂場の遊び道具がかけてあったこと」に驚き、「これは福島では一年間全く見られなかったことだ」と言いました。私たちは福島の人と出会わなければ、福島で生きるとはどういうことがわからないのだと思った言葉でした。セカンドハウスは、私たち県外の人間の方こそが学ぶこと、行動に移すことを迫ってくる働きなのだと思いました。

●「今回、思いきって出かけてよかったです。長男はセカンドから帰って、みんなに変わったと言われます。一人で行動することで自信がついたのか、大きな都市に身をおき、世の中の広さを感じてくれたのかわかりませんが、良い方に変わっています」
神戸セカンドハウスを利用された方の言葉です。このお子さんは中学生で、アスペルガー症候群でした。セカンドで神戸に滞在中、お母さんや妹弟とは行動を共にせずに、時に一人で自転車に乗って、時に一人電車に乗って、いろいろなところへ探検しに行ったようです。どんな状況であっても、こどもたちは成長し続け、その可能性はたやすくつぶされることはないのだと思いました。

●「何が良かったって、普通の生活ができたことが一番良かった」
昨年の夏に神戸のセカンドハウスを利用した方の言葉です。日本のこどもたちの夏休みは約1か月。この方はその間、他団体の保養キャンプや所属する教会のキャンプを1週間ごとにはしごし、その合間の一週間をセカンドハウスで過ごしました。「なんだかばたばたするばかりで、ゆっくり楽しめなかったんじゃないですか」と聞くと、「セカンドのいいところはね、普通の生活ができることなの」とおっしゃいました。「福島にいると買い物ひとつ、安全な産地のものを探すのにも苦労するけど、ここならその手間が省け、その土地のものを気軽に手に取ることができる。そして暑い日には窓を開け、外に洗濯物や布団をほし、庭の手入れや草木に水やりができる。一人で堤防のところまで歩いたの。そんなこともすごく良かった」。当たり前だったことを取り戻せたことが良かった、とその方は言いました。なんだか胸が熱くなりました。

●「保養に熱心なのは、実はだんなの方なんです。原発事故のことを知った時も、私は“へぇ?”って感じだったんだけど、だんなの方が“すぐに逃げろ!”って言ったんです」
昨年夏に神戸セカンドに来てくれたお母さんの言葉です。セカンドハウスを利用するのは、たいていが母子です。しかしこの方たちは父親、母親、こどもの3人でやってきました。そういえば、申し込みや細かなやりとりはすべてご主人がしてきたことも思い出されました。この方も、他団体の保養キャンプに参加しており、そのエピソードを面白おかしく話してくださり、聞いているこちらもおなかを抱えて笑ってしまいました。
笑って話を聞きながら、この方の明るさは、夫と妻が一致していることからくる明るさなのかなと思いました。夫婦の思いが一致していれば、どんな問題も笑い飛ばすことができるんだなと学びました。

●「この話を、自分の住んでいる町の人にも聞いてほしい」
これは神戸YWCAが、2012年春、セカンドハウスとは別に行った保養キャンプに参加したお母さんの言葉です。このキャンプの中で、チェルノブイリの子供たちへの診療を続けてきた内科医の振津かつみさんに、みなさんの質問に答えていただく医療相談会をしました。相談会が終わった時に、そのお母さんが言った言葉が「自分の住んでいる町の人にも、この話を聞かせたい」でした。その後、この方は福島に戻ってから隣近所の仲間に呼びかけて、とうとう4か月後の7月、自分の住む小さな町で振津さんの医療相談会を開催したのです。
後にお送りいただいた相談会参加者のアンケートの中に「放射能への不安や疑問について話し合う場が、この地域では一度もなかったので、大変うれしかった」という感想があったことは、驚きであり、また胸が痛かったですが、その後、その参加者たちで「こどもの未来を考える会」という小さなグループをつくり、3か月後には別の場所で第二回目の相談会を開催されました。孤立感の重い地域にあって、他者のために動き出しているお母さんたちの姿は、大きな希望だと感じています。

●「でも、やはり主人と娘たちを育てたい。奥さんとして、主人を支えたい。家族4人で暮らしたい。汚染地帯とはいえ、愛する人のいる場所。自分勝手かもしれませんが、自分自身が納得できるものがあれば、私は福島でも暮らせそうな気がするのです」
これは、いま神戸に避難してきているお母さんからいただいた手紙の中の一文です。面識はありませんでしたが、何かでYWCAのことを知ってくださったのでしょう、担当者の私に手紙をくださいました。
この方は地震直後に、ご主人のご両親が住む神戸へ避難してきました。しかし一年半以上がたち、この4月には福島へ戻る決心をしています。
「正直、いくら気をつけて生活していくにしても、放射線の見えない恐怖や不安など、やっぱり帰るのが怖い。親のエゴに子供を突き合わせているのではないかという葛藤もある。将来、娘たちが結婚差別を受けるリスクもしょいこませるのではないか」。でもやはり主人と一緒に娘たちを育てたいのだとこの方は書いていました。
そしてこの方の手紙はつぎのように締めくくられていました。「その、自分が納得できるもののひとつが、YWCAの保養プランです。新聞やニュースでも福島のことが忘れられてきています。単発的なイベントや支援はよく見かけるけど、来年はどうなるのだろうと不安になります。そんな中、長期的、定期的な支援活動や保養プランが、どれだけ子育て中のお母さんたちの希望になるでしょう。いろんな人と出会いたい。お世話になった先では、自分たちで出来る範囲で恩返ししたい。マイナスをプラスの経験に変えたい。どうぞどうか長期的な保養プランの継続をお願いします」。
これは、この手紙を受け取ってから、神戸YWCAのメンバーと共にこの方とお会いできた時の写真です。彼女が帰ろうとしている場所は、放射線管理区域並みの場所です。二年近くをかけてこの方が選び取った「幸せのかたち」を思うとき、なんとか彼女の決断を応援したい、ぜったい保養プログラムの機会をとだえさせてはいけないと思っています。

福島の人たちと接しながら、私は思います。国がいうからではない、誰かが言うからではない、誰のせいにもせず、自らが考え、自らが選び取る、日本の中で一番自立した人たちの住む場所、それが福島ではないかと。
また私は、この人たちの中に、私が習うべきモデルがあると感じます。
私は「今日も守られますように」と祈ります。それは病気になりませんように、事故にあいませんようにというレベルです。でももはやこの人たちは、どんな困難や難しさ、危険でさえも、それが自分を不幸にするのではない、と宣言しているように思えます。自分にとって「幸いである」とはどういうことかを考え抜いて、選び取る、迷いつつも喜び感謝する作業を日々刻々としている人たち、それが福島の人たちなのだと思うのです。
福島から目を離さず、福島と共に歩むことは、原発が都市生活者に電気を供給してきたこと、そして原発労働者の方たちの犠牲の上に私が豊かで便利な暮らしを享受してきたことからも、なさねばならない義務だと思います。

どうぞ、日本の放射能被災下にあるすべての方々のためにお祈り下さい。この困難の時であっても、喜びがあるように。この難しさの中にあっても、愛があるように。私を含めて日本の一人一人が深く悔い改め、主にあって正しい道を選びとっていけますように。
「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢える事にも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」ピリピ4:11

 

 

 

 

 

Konsultationen

Zur Chronologie der Beziehungen:
DOAM und Tokyo / Tomisaka 

1945

Pfarrer Dr. Liemar Hennig in Kyoto, Pfarrer Theodor Jaeckel und der japanische Pfarrer FUKATSU Fumio in Tokyo.

1946

Dr. Hennig und Pfr. Jaeckel werden entlassen. Pfr. FUKATSU bleibt allein.

1952

Pfarrer Harald Oehler aus Halle wird als erster Missionar nach dem 2. Weltkrieg nach Japan entsandt. Er versteht seine Arbeit als "Pioniermission" in einer Zeit des Aufbruchs, des Suchens nach beständigen Werten in der jap. Gesellschaft. Er findet ein im Krieg weithin zerstörtes, aber in schwerer Nachkriegszeit schon wieder im Aufbau befindliches Tomisaka vor. Pfarrer FUKATSU Fumio hatte über Krieg und Nachkriegszeit alle Kraft zur Erhaltung des Besitzes verwendet. Ein Jahr später,

1953

wurde Pfr. Fukatsu entlassen, der sich dann zur Diakonie hin orientierte und das große Diakoniewerk "Kanita-no-Mura" in Tateyama, Chiba-Ken aufbaute.

1957

kam Superintendent Alfred Schmidt nach Tokyo um den Aufbau einer Akademiearbeit nach deutschem Vorbild in Japan voranzutreiben. Bis 1959 geschah dies in Zusammenarbeit mit der DOAM, danach machte sich die Akademiearbeit selbständig.

1961

kamen Pfr. Heyo Hamer und Pfr. Norbert Klein nach Tokyo. Letzterer arbeitete von 1962-1965 in der Akademie. Pfr. Hamer ging nach dem Studium in eine neue Arbeit nach Fukuoka bis 1968. Dort arbeiette er eng zusammen mit Prof. TAKIZAWA Katsumi von der Kyushu-Universität.

1965

wurde Pfr. Günter Dressler nach Japan entsandt, um die Nachfolge von Pfr. Oehler anzutreten. Er kehrte 1975 aus Japan zurück. Im gleichen Jahr,

1975

wurde Pfr. Schneiss im Auftrag des EMS (und DOAM) in den Dienst der Vereinigten Kirche Christi in Japan (Kyodan) nach Japan ausgesandt.

 

Die japanischen Mitarbeiter

1887

Gründung der Kamitomisaka-Gemeinde

1937-1954

Pfarrer Fukatsu Fumio

1954-1967

Pfarrer Matsumoto

1967-1984

Pfarrer Bitoh Shunichi

1985-1998

Pfarrer Ishimaru Yasuki
(Pfr. Ishimarui versieht weiterhin die Pfarrstelle)